今朝のココア

こんな日々を愛おしく思って

盲目。

 理解してくれる友達がいる幸せに...イェイ!(?)
しんデス。




 ●みさと。
お前はよくさ、盲目になった者が勝ちだって言うけどさ、
確かにそうだなぁーって俺も思う。
思考の止まった状態ってのは楽だよね。




 たとえば、ルールのよくわからないゲームがあったとして、
それを俺らは楽しめるだろうか?
たぶん、楽しめる人は楽しめると思う。
だけど、普段ゲームをルールのある中で楽しんでいる人は、
きっとつまんないと思う。
『よくわからない』ってことがストレスになるんだ。
どのようにプレイしたら良いかわかってて、
どんな風にプレイが評価されて、
どうやったら勝てるか...。
わかってる方が面白い。それが普通だと思う。
わからないってのはつまんない。



 不思議なことに、この世界はよくわからないことでできている。
それを不思議と呼ぶことの自然さに、ルールのあるなしのどっちが“普通”に捉えられてるかが表れる。
今も昔も、わからない物事にはわかっていることよりリスクが多く含まれていて、
それゆえ俺らはわからないことを不安に思う...のかどうかはわかんないけど、
人間にはわかっていることを好む傾向があるように、俺には思える。




 世界を説明できる人がいたら、俺はその人を凄いなぁーって、たぶん尊敬すると思う。
世界じゃなくても、人間を、その仕組みを、本質を、真実を...それっぽいこと(笑)を説明できる人がいたら、話を聞きたいと思うし、その人の意見に、それがなんであろうと従うんじゃないかと思う。


 世界や人間の“説明”は、俺の中では真実や正義と一緒のもので、
説明ができるなら、その人は絶対的な正義だと思う。


 世界に知識は溢れているけど、
一番信者(?)の多い科学は、どう生きたら良いかを俺らに示さない。
だけど教えてくれることは、世界・人間の仕組みの説明、絶対的な真実や正義は存在しえないということ。
横の線上に正義や真実が多く存在しても、
縦の線にそれを並べることができない。
でもお互い、自分が一番正しいと主張してる。
やっぱり俺らはどれを選べば良いのかわかんない。
選んだところで、それが正解なのかわかんない。
おかしいことに、正解なんてないはずのに、合ってるかどうかをやっぱり気にする。
多くの人は、一生自問自答だ。
これで良いのか?選択肢を間違えてないか?
そしてやっぱりよくわかんない世界や人間、ってか自分にイライラ。
こんなこと考えてるのは、よくわかってないのは自分だけなんじゃないかっていう考えも不安を後押し。
ストレスだ。






 ...でも、もし説明が可能なんだとしたら?
ルールがないように思えて、ある。
世界に意味がないように思えて、ちゃんとある。
人間にもはっきりした意味があって、
俺にも役割がある。意味がある。
そしてそれらはコントロールできる。
自分も、その周りの環境も。
そしてそして、同じ疑問を持ってて、
今は同じ目標を持つ同志がいる。
そしてそしてそして、真実を語るあの人は、現実に存在する絶対の正義だ。








 ...これを求めて、何が悪い?
“集まり”に参加して、気分が楽になって、
人生を楽しめて、
それを誰かが非難する権利なんてあるんだろうか?



 なぜか上の話は恋の話に似てる。
それも若い時の恋。
好きな人しか見えなくて、その人がすべての答で、
自分に意味をくれる。
盲目。




 特別な団体に参加する必要はない。
俺らはもう既に、それなりに参加してるじゃないか。
それなりにルールがあって、
答えも説明もあって、
その中に多様性も、似た考えを持つ人もたくさんいる。
絶対的な正義の存在は、自分で見つけろ。
ちゃんと頭使って、怠けずプレイしてれば、
ほとんどの人がエンディングにたどり着ける。
それなりに楽しいし、それなりに幸せだ。...たぶん。
社会人のゲーム。



 




 ...そんなわけで、たぶんあいつは気持ち良いんだと思う。
みさとは、気づいてるはず。
あいつを否定することはできる。
だけど、正すことはできないって。
なんせ俺らには、何が正しいかなんてわからないんだから。
今度お茶した時には、
どう生きたいか、その話をしよう。
そしたらせめて、俺はこっちの生き方が“好き”だとあいつに伝えられる。













 ...誰だよ、みさとって?
明日から初めての2連休。
おやすみ。